香港に行く機会がたまたまでき、留学中の友に会う目的もあって行ってきた。
なんとなく、他人のブログを読んでいて自分も書きたい気持ちになったので、ちょっと思ったことをば。
様々な光に満ち溢れた街のなかで、当然のごとく影の存在も本当に少しだが垣間見ることができた。
到着と共に巨大なビル群の洗礼を受け、これでもかというほどのビルの林立感は正直恐怖さえ感じるほどだった。
現地人も近づかないというバックパッカー御用達の重慶マンションに僕らは宿泊。インド人や黒人たちが周りで談笑しているのが印象的だ。
香港では、障害者や老人の物乞いはところどころで見受けられたが、東京にみられるようなトンネルや橋の下ホームレスはいなかった。
しかし、香港にそびえる巨大なビルの気づかないような細い谷間で、彼らは生きていた。彼らは、掃除夫としてビルの管理をし、夜はその谷間の寝床について暮らしている。
香港はもともと漁師の町だった。香港と聞くとかなりの大都会を想像するが、領域内に230ほどの島々を抱えていることからもわかるように、自然にあふれた地域もかなりあるようだ。僕はその一つ、LAMMA ISLANDという比較的大きな島に行った。そこには、蛋民と呼ばれる人たちがいた。彼らはいまだに水上での生活を続けている。
他にも、留学中の我が友に聞くところによると、この蛋民を政府は湾岸地帯に巨大な団地群を立て続けることで陸に上がらせようとしているらしい。蛋民の人たちの波止場には、小さな屋台がいくつか並び優しい明かりを灯している。それに癒された一観光客としては、なんともはがゆい思いがする。
香港の光と影。
一体、どちらが光でどちらが影なのか。そもそも光と影という2元的な表現自体、無理があるのか。
きっと小さくとも人によって求める光は違うはずだ。僕にとっての光は何なんだ。僕にとっての光は、僕にとっての真実。そう、人間臭さや迷いが混在していて、わかりにくくて一見矛盾してたりもするもの。それが僕にとっての真実。そうか、色々なものが混在する香港という街全体が、もしかしたら僕にとっての光なのかもしれない。そして、同じことが影についてもいえるんだろう。
にしても、カタカナを訂正できる人は香港にさえいないのだろうか。まぁ面白いから全然いーけど。笑