2007-09-30

想像する。

今年の夏休みは、またすごくたくさんのことを経験することができた。
8月の本会議は、きっとこれからの僕の人生の原点になるものだったと思うし、いい意味でも悪い意味でも僕に対して示唆に富んだものだった。
一人旅でもまた、今度は自分との話し合いという意味でとても良い時間を過ごせた。クアカタでの津波事件は、きっと僕の中に一生残るものだろうと思う。この経験を中心にして、自分の中の核なるものを少しずつ塗り固めて大きくしていけたらいい。

想像することが大事なんだって、改めて感じた。
特にいまの時代にあって、それが益々重要性を増している。

クアカタで自分が初めて「社会的弱者」といわれる様な人達と同じ立場、同じ視点に立って迫り来る津波の恐怖におびえた。ただその到来を待つ以外、何もできない。
もし津波が来ていたら、と思う。身震いする。

日本にいたとき、こんな風に僕は想像しただろうか。いや、しなかった。
僕や僕たち先進国側の人間は世界で起こる悲劇のことをもっと想像しなければならないと思う。

江戸時代や、ずっと昔はきっと今のように世界で起きていることを想像することなんていらなかった。自分の生活に関わっているのは、周りの家とせいぜい自分の町で収まるわけで、3丁目の〇〇さんちのおじいちゃんが死んだらその死と家族の悲劇を悼むくらいのことでよかった。自分の関わるコミュニティから外れることを想像する必要はなかった。

でも、
今は違う。自分の着ている服がお隣の国の人が作ったものだったり、夕飯のコロッケのお肉が海を挟んで運ばれてきたりするのが当たり前の環境だ。もはや日本で生きる私たちの生活は、世界と関わった。関わってしまった。それなのに、想像する範囲は江戸時代と同じ自分の属するコミュニティの中とちょっと新聞やテレビに出てること。
自分は世界の人達に支えられて生きているのに、自分はというと世界の人達が苦しんでいてもわれ関せずって感じで生きている。それって、ちょっとおかしい。金があるからいいのか。金を渡せば、それでいいのか。きっとその程度の話じゃないはずだ。

想像するとはどういうことか。テレビのニュースをみてああかわいそうだと思うのとは違う。その人々の置かれている立場や状況を自分に置き換えて考えてみるということだ。別に募金や被災地に行ってボランティアしろといっているのではない。そんなのは、やりたい人に任せておけばいい。想像して痛みをわかろうとすれば、そこから自発的な何かが生まれる。考えてみよう。
阪神大震災が起きたとき、多くの人達が被災地へボランティアに出かけ、色んな助け合いが生まれたという。日本におけるボランティア活動の原点は阪神大震災にあるとも言われるくらいだ。それはきっと、被災者の痛みを想像したからいろんな人が自発的にそのような行動に転じた結果だろう。
同じことを僕たちは「史上最大の人道危機」といわれるダルフールの人達にしているだろうか。彼らの痛みを想像しているだろうか。距離や情報量など様々な点で、阪神大震災とは状況が違うだろう。問題が複雑で、わかりにくいと思うかもしれない。でもそんな問題を僕たち一人ひとりが理解する必要はなくて、それ以前にダルフールで無残に自分の家を破壊され、なたで切られていく人々の痛みを、単に同じ人間として僕たちは想像しなければならないと思う。した方がいいのではない、しなきゃいけないんだと思う。僕たちはそれだけのことをしなくちゃいけない生活をしている。
彼らの痛みや苦しみを想像するという行為が、現代において世界の多くの人々に支えられて日常生活を送る僕たちに必要な一つの行動要素だと思う。

もちろん、偉そうにこんなことを言っている僕であっても、今までここまでの問題意識をもったことは一度もなかった。本当に恥ずかしいと思うし、間違いだと思う。

想像するということをできない、しないのであれば、それはすなわちナチスの人間達とも変わりない。彼らはユダヤ人の痛みを理解しようとしなかった。相手の痛みを理解しようとしなければ、僕たちにだって難しい話は抜きに彼らのようになる可能性はあるんだと思う。

それは、イラク戦争を起こしたブッシュやアメリカ国民にだっていえることだ。自分たちの痛みは理解しろと言うくせに、相手の痛みを想像しなかった。終わってから間違いだったなんて言ったって後の祭りだろう。

また、その「想像する」対象は上に述べたようないわゆる弱者といわれる人達の痛みを想像するということだけでもない。
よく言われることだか、先に述べたような夕飯のおかずに対してだって、僕たちは想像しなければならない。コロッケになった牛肉だって、もともとは牛で生きていた。それを殺し皮を剥ぎ、内臓をむき、切り裂いて機械でミンチにする。その牛の殺される痛みを想像せずしてコロッケを食う資格はないのだろう。
たかが牛と言うかもしれない。それでも僕は、牛の痛みを想像しなければならないと思う。小学校で僕らはみんな生きていると教わった。

環境問題だってそうだろう。猛暑に冷房を18度に設定している人間がオゾン層を破壊しているという感覚を持っているわけがない。でも、そういうことが起きているということを想像する必要が、今の僕たちにはあるのだ。

さらにいえば、教育というもの自体、想像することを訓練するべきところではなかったか、と思う(学校の授業を真面目に受けてこなかったし、大して勉強も出来るわけではなかった僕がいうのはおかしいとほとほと思うが、だからこそこう思うのかもしれない)。未知なる世界をみせて、想像させる。想像すれば、その想像が実際はどうなのか気になる。だから勉強する。想像することが教育の最も根本となるべきだと思う。数学や理科系のことはわからないが、現代社会においては相手の痛みを想像できなければならないし、それは日常生活からは非常に遠い存在になっている。まさに未知だろう。それを想像し、理解したいと思うから、勉強というものに結びつくのだと思う。ところがどっこい最近の学校はといえば、全くもってこの想像することを無視しているように思えてならない。暗記や理解の早い奴だけが勝つような教育は、どう考えてもおかしい。物事の本質はそこにあるとは思えない。

想像力とは、現代人に一番かけていて、一番必要とされているものだろうと僕は思う。
でも、想像力があれば、きっと今起こっているたくさんの社会問題は解消されていてもおかしくないとも思う。
想像力があれば、戦争だって止められると思うし、環境問題だってもっと解消されていくはずだ。南北問題だろうと、拉致問題だろうと、自殺率だろうと、年金問題だろうと、どんな問題だってもっと解決に向かうはずだ。

想像しよう。
僕自身に言っている。

2007-09-28

KUAKATAにて。

9月12日インドネシアのスマトラ島中部で地震が起きた。

地図、情報。

またもやインドネシア。
本当にショックだ。インドネシアはまだ途上国であり、中部地震の復興も終わってはいないだろう。
度重なる天災に、生活の脆弱性も相まって人々の生活が窮していることを想像している。
亡くなった方々へのご冥福をお祈りすると共に、早い復興の手が入ることを切に望む。

この地震が起こったとき、僕はボリシャルから南にバスでくだって(このバスくだりがまた壮絶だった)クアカタというベンガル湾に面した小さな町にいた。

KUAKATA


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11月から3月ころまでのシーズンには旅行者も結構来る。
観光客は、シーズンをはずれているためほぼ僕一人だった。そのため、3日もいればの多くの男たちに「ジャパニ!こっち来い!」と呼ばれるようになった。

kukakataでの生活はとても興味深いものだった。

人々は皆暖かかったし新しいものにはとても興味があるらしく、カメラや僕の懐中電灯をみんなでいじくりまわしていた。

宗教的にもヒンドゥー教、イスラム教、仏教がうまく関係しあっていて、とても素晴らしい町だったと思う。

またヒンドゥー教徒や仏教徒が来るときにたずねてみたいと思った。

そんな中、12日の夕飯どきにみんなでわいわい話していると、ある男が「今晩はツナミが来るから逃げたほうがいいぞ」と、何気なく言う。

あまりに何気ない感じだったので僕は最初冗談かと思ったが、他の人の話を聞いているとどうやら事実らしく(こういう情報は皆テレビかケータイ、次いでラジオから手にいいれる様子)、ホテル(政府の観光局が経営しているもの、割と大きく15室くらいあった。シーズン外でかなり割安になっていた)に戻って、従業員たちとまた話をした。

彼らはかなり緊迫感があって、私の帰りも今かいまかと待っていたようだ。インドネシア周辺で地震があったことを聞く。急いで2階に荷物をもってあがれと言われ、言われたとおりに荷物をもって2階へ。一室に案内されたが、他の部屋はすでに近隣の住民らが避難してきてiた。子供もお母さんも男たちも、皆不安そうにしている。

外では、バイクが拡声器をもって避難を呼びかけて走っていく。また翌朝ボリシャルやクルナなどの大きな街に行くために留めてあった長距離用のバスには、たくさんの人達が乗り込んでいた。

若者たちがいつも遊び半分で乗っていたバイクはこのときとばかりにホテルの前をクラクションを鳴らして疾走していく。

僕も、ホテルに残ろうかそれともバスに乗ろうか、迷いに迷った。僕だって生きたかった。
しかし、一旦はバスの前にまで行ったものの、乗るのを止めた。

やっぱり今まで僕に色々善くしてくれたホテルの従業員たちを残してひとりバスに乗ることはできなかったし、実際隣町に行って助かるものかというのも大いに疑問だった。

というのも、そこまで行くにはかなりのオフロードが予想されたし、この混乱では隣町も色々な方面から人が集まって僕の居場所などないだろう。また、隣町も川岸にありまたホテルなどの高い建物も確かあまり見当たらなかった。
ならば、海から2百メートルほどではあるが、3階建てかつ鉄筋コンクリート(のはず)のこの建物の中にいたほうがまだ安全だろう。

実際、その判断は正しかった。2時間ほどあとになっても最後の一台のバスが出発しないのでなぜだろうとホテルの従業員と話していたら、先の道で渋滞がおきて詰まっていて行くにも行けないらしいとのこと。雨期のために道路は水を多分に含み、バスはぬかりにはまって抜け出せなくなり、またバングラデシュを細分する無数の川は橋がないために、渡し舟を待つ車で大渋滞。

この一件だけ考えても、途上国の脆弱性というものが非常に恐ろしい問題であることがわかる。

貧困とは、毎日の飯が食えない状態だけを指すのではないということを身をもって感じた。
こういう状態になってバスに乗れる貯金もなく、また乗れたとしても上記のような状態で逃げることも何もできないこともまた一つの貧困の形だろうと思う。

もし、道路や橋が整備されていたら、
もし、津波や災害時のための備蓄品やシェルターが用意されていたら、
事態はもっと収束していたはずだ。

僕もまた、ホテルの中でどうすることもできず、ただ落ち着かないまま廊下をソワソワと歩き回っていた。

ホテルはバスに乗れなかった人達も来て、少し増えていた。が、そんなに多くはない。ホテルの2階の部屋数(6室)で十分たりた。大体従業員もあわせて40人くらいだっただろうか。そもそも町自体にそんなに人はいないのだ。

こんなとき、このムスリムコミュニティには属していない仏教徒の人達はどうしているのだろうと考えた。
彼らもまた、海岸から50メートルも離れていないところ稲作をして生活しており、またこちらのムスリムコミュニティの人達ようにバスやバイクもあるわけはない(200年以上ここに住んでおり、独自の暮らしぶりを守っている。町のムスリムたちに比べ非常に素朴な性格)ので、どうやって逃げるのだろうと思った。
ダッカや街に出るときはこちらのバスを使うと聞いたが、この状況ではそうもいくまい。


僕は、どうにも仕方がないので部屋に戻って、今日の日記を書くことにした。それ以外、することがなかった。すると、避難してきた子供たちが集まってきて、僕の日記をじっとみつめる。日本語なのに。笑

そのうち、僕の方が「書く?」と聞くと、ペンを持って自分の自己紹介を書き始めた。英語を出来る大人さえこの地区では少なかったが、非常に流暢に英語を操る男の子だった。学校で勉強したという。集まってきた子供たちもどこか不安そうな顔をしている。そんな顔をされると、こちらもつられて益々不安になりそうだ。僕は勤めて笑顔で応対する。自分でもいっぱいいっぱいだった。


時計をみると、11時半を過ぎていた。


いざというときに、体力がなくてはマズイと思いとりあえずベッドに横になる。

受付のヒンドゥー教徒の女の子(25歳くらい)や、よくわからない男(僕の周りにはこんなんばっかりいた笑)らが横に来ては励ましたり、日本に行きたいぜと言ってきたり(こういう場合には、どうして日本に行きたいのか、理由や目的を聞いて、日本がどういう国で悲惨な人達がたくさんいることを逐一説明するのだが、なかなかわかってもらえない)、色んな人が話しに来てくれた。とにもかくにも、一人ぼっちだった僕としてはひとりにしてほしい気持ちもあったが、素直に嬉しかった。


このとき、僕は生まれて初めて、死というものを意識した。精神的な圧迫感、とてつもない不安感。息が苦しかった。これが恐怖するということなのだろう。こういう状況になって初めて人間の「大きさ」とはわかるものだ。このときの僕は一体、どのくらいの大きさだったのだろう。どれだけ、周りのことやこれから起こることに対応できただろう。死を覚悟するなんてことは、全くもってできやしなかった。


が、結局これだけ期待した津波は来なかった。

6時ごろ、町に出てみるとチラホラと食堂や店を開ける人達がいた。自宅に残った人達もいたらしい。

仏教徒コミュニティの方にも行ってみたが、彼らもいつもどおり暮らしていた。
避難したか聞いてみると、「ツナミ?なんのことだ。昨日もいつもどおりだったよ。」と言っていた。ツナミのことも知らなかったらしい。いや、きっと知っていた人達もいたはずだ。拡声器でバイクが走り回って伝えていたし、コミュニティは町のすぐそばにある。テレビもある。知らないはずはない。

ここからは僕の想像だが、きっと彼らはここが一番安全だと考えたのだと思う。200年以上も続いてきたわけだし、バングラデシュで一番大きな仏像もある。ここ以外に行く場所もないのだろう。ムスリムと一線をきっちりと分けている彼らが、こういう場合に限ってムスリムの力を借りて彼らの家に避難するなんてことも考えにくい。

もし、津波がきていたら、と考える。海のすぐそばまで広がる田園は壊滅、波は川を逆流し幾多の町を飲み込み(町は普通川のそばにある)、その後、伝染病が蔓延し、老人や子供が救いの手もなく死ぬのだろう。水没した田園を復旧するにも長期間かかり、農家は困窮するだろう。救えるはずの多くの命が失われていく。

こういう話を、実感として感じた。

自分が今生きていることを本当に幸せに思った瞬間だった。


帰国しました。

帰国しました。

バングラ・ネパール・バンコクを周った3週間強の一人旅。

自分自身が再確認するためにも、またアップしていこーっと。


色々迷惑をかけました~

2007-09-17

ボリシャルという街

8月9日
ダッカの古い町、オールドダッカ(名前はそのまま笑)にある港、ショドルガットにいる。
プリコンガ川に面したこの港には、たくさんのボートや船などが行き交い、とても熱気にあふれている。川が重要な交通の一部をなしているバングラデシュの要衝なのだろう。

ここから、18時発の夜行船に乗り、バングラデシュ第5の街、ボリシャルを目指す。僕は約600円の一等席を予約し、船に乗る。2等や3等などの地面に雑魚寝も考えたが、一応日本人だし貴重品もお金も持っているのでせめて荷物だけでも個室の1等に置こうと考えていた。

船は、時間通り出発(ベンガル人は日本人と同じくらい時間通りに行動する)した。僕は、荷物を置くと2等や3等の客室(といえるほどのものではないが・・・)に出てそこらへんにいるガキンチョと遊んでいた。ガキンチョは、周りのいろんなことを知っていて(街の裏とか船の皆が入れないところとか)、いつもそういうところを知りたいと思うときは、子供に近づく。彼らも例にもれず、いろんなことを教えてくれた。船の最後尾の手すりの裏には、彼らのとっておきのスペースがあったし、操舵室がある屋上の座れる場所にも案内してもらった。この日の夜はとても晴れていて、星がとてもきれいだった。遠くで雷が光っているのも見えた。川は静かに流れる。ただ、残念だったのは、大人に紛れて10歳たらずの子供までタバコを吸っていたこと。せめて僕というどっかの金持ち日本人が、それってマズイことだよって言ったら何か変わるかなって思い彼らからタバコを取り上げる。ジェスチャーで、タバコ→頭→クルクルパーってやる。伝わったのかな。といいつつ、僕も大人に薦められ吸っていたのを彼らは知っていたのだけれど。



大人たちとも話した。そのうち、ベンガル語教室になってきて、僕がベンガル語を話すたびにたくさんの人が集まってきた。いつの間にか、十数人の子供と大人に囲まれて、僕と彼らとのベンガル語の勉強会が続く。僕がベンガル語を話すと、彼らはドッと笑い、違うだとか、発音はこうだ、とか口々に言い合う。
大人も子供も好奇心が旺盛で、とても明るい。最初はキッと睨んでいても、こちらがニヤっとすると、向こうも9割の確率でニヤッと返してくれる(もちろん「コイツきもい」、と思う1割の人達もいるのだが)。

しかしそうこうしているうちに、一等席のマスターがやってきて、僕に英語で、
「ここは2等、3等のところだ。おまえのいるところじゃない。早く部屋に戻れ!何かされたら、どうするんだ!」
といって、僕を引っ張った。周りの男たちも英語がわからないし、わかってもちょっとなので、彼らには伝わっていない。
僕はわかったと言い、一等の船室に戻った。正直少し疲れていたのでちょっと助かった気もしたが、それにしても彼らはそんなに悪い人ではない、というのが僕の思いだった。

カメラを渡しても、自分の顔を一生懸命撮るだけで、盗ろうとか買おうとかしないし、何より彼らの雰囲気がとてもそういったものとかけ離れていた。

日本では、総じて途上国は危ないと思われがちだが、実際それは国によって様々だ。ケニアのナイロビは僕も危ないと感じたが、ここバングラデシュは総じて国民も親日的だし、感受性も豊かで心優しい。貧しいというだけで治安が悪い、というレッテルを貼るのは間違っている。もちろん、たった一人の僕個人が関わったベンガル人にいえることであって、それをバングラデシュの治安全体に結びつけるというのは、あまり説得力のある話ではないのだけれど。

そうこうしているうちに、バングラデシュ第5の街、ボリシャルに着いた。

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この街は、海が近いからか雨季のせいか少し湿り気があり緑も豊かだ。牧場なんかも近くにはあり、また宗教的にはイスラムだけではなく、キリスト教系の寺院やヒンドゥー系の聖者廟なんかもあるらしい。

朝5時半にたたき起こされて着いたため、真っ暗で何も見えなかったので、港の前にあった食堂でチャー(チャイと同じ、こちらではそう呼ぶ)を飲んで時間をつぶす。でもあまりに眠いのと周りのおっちゃんが色々うるさいので、リキシャに乗ってホテルに移動。が、受付のおっちゃんも受付の下で蚊帳の中まだ寝てる。仕方ないので、レセプションにあるソファーで寝る。

朝8時半頃になって、またもやたたき起こされる。受付のおっちゃんはすでに起きていて、部屋はないから隣に行け、とのことだった。
隣のホテルに行くと、歯磨き中の中学生くらいの男の子2人が受付をし、部屋まで案内してくれた。僕をみてニヤニヤしている。こちらもニヤニヤし返す。

大体、この辺の安宿の相場は260円程度。トイレ、シャワーつきで、まぁまぁ快適だ。
それから僕は、もうひと寝入りして、午後から行動を開始することにした。
ダッカの喧騒から比べると、少し落ち着いており(というのも、車の量が圧倒的に少ない→クラクションの音が減る)、とてもいい感じ。建物も、中心部は4階ほどあるが、それ以外はほとんど平屋、よくて2階な感じだった。

本屋にはエロ本なんかもあって、周りのおっちゃんと一緒にみる。皆でニヤニヤする。
平日の昼で人影の無い洋服のマーケットの一角で、ゲームに興じるおっちゃんたちを発見。
さっそく、仲間入り。バングラデシュではメジャーなゲームらしい。一部始終をビデオに収めたので、日本に帰ったらアップしよう。(ここは回線が遅くてアップがうまくできない)
ビリヤードに似ているが、四角の台の上でコインのような平べったい手玉をはじいて一回り小さいコイン状のものをカドの穴の中に入れていく。日本語がうまくないので、とりあえずビデオをみてほしい。
僕もやってみたが、意外と難しくなかなか入ってくれない。

また、街の甘味処にも入ってみた。こちらではあまり甘いものは食事のときにでてこないが、甘味を食べるということになると、本当に甘い。

また、香辛料を葉で包んで食べる、というのがこちらではタバコと一緒に売られているのだが、これをやっている少年もレポートした。
食べたが、本当に苦くマズイ。これを平気で美味そうに食うベンガル人。なんという味覚のレパートリー。
恐れ入った。

この後は、バスに乗って海岸沿いのクアカタ(KUAKATA)という街に行く。

2007-09-08

ダッカ写真集

ダッカの写真です。

古い町並みの方は撮れなかったので、結構開発されている方の写真です。

信号なんかもありますが、皆守りません。
主要な交差点にはおまわりさんが立って整理しています。



ダッカの日々

日本を出て、ダッカに着いてからの3日間、たくさんのことがあった。

色々言うのはおいておいて、とりあえず写真をアップしておこう。

人は結構、あったかいかも。



昨日、宿の前の公園でサッカーをしている若者たちを発見!
すかさず、「入れてー!」とやってきました。

雨が多いため、地面はぐちゃぐちゃ。

ってことで、はだしでやっていたら、横で遊んでいたガキンチョの一味が俺の靴と靴下を強奪。

「コラーッ!」

といったら、皆大喜び。

ったくー。


・・・にしてもかわいい。





あーあ。。俺の数少ない靴下が・・・

2007-09-05

本会議終了&バングラ、ネパール、バンコクへ

こんばんは、みなさま

僕の年間の目標だった、本会議が無事終了しました。

一区切りです。

細かな感想、反省は次回にするとして、今から、一人旅に出かけてきます。

まずは、ダッカについてバングラ、それからネパール、最後にバンコクにトランスジットがてら、よってきます。
帰りは、27日!

昨日まで25日だと思ってましたが、27日でした。。
波乱がおきそうな予感。。

ビビッてます。


・・・あ、搭乗手続きが始まっちゃった!!

良い旅を!自分!!

では。