2007-09-28

KUAKATAにて。

9月12日インドネシアのスマトラ島中部で地震が起きた。

地図、情報。

またもやインドネシア。
本当にショックだ。インドネシアはまだ途上国であり、中部地震の復興も終わってはいないだろう。
度重なる天災に、生活の脆弱性も相まって人々の生活が窮していることを想像している。
亡くなった方々へのご冥福をお祈りすると共に、早い復興の手が入ることを切に望む。

この地震が起こったとき、僕はボリシャルから南にバスでくだって(このバスくだりがまた壮絶だった)クアカタというベンガル湾に面した小さな町にいた。

KUAKATA


拡大地図を表示

11月から3月ころまでのシーズンには旅行者も結構来る。
観光客は、シーズンをはずれているためほぼ僕一人だった。そのため、3日もいればの多くの男たちに「ジャパニ!こっち来い!」と呼ばれるようになった。

kukakataでの生活はとても興味深いものだった。

人々は皆暖かかったし新しいものにはとても興味があるらしく、カメラや僕の懐中電灯をみんなでいじくりまわしていた。

宗教的にもヒンドゥー教、イスラム教、仏教がうまく関係しあっていて、とても素晴らしい町だったと思う。

またヒンドゥー教徒や仏教徒が来るときにたずねてみたいと思った。

そんな中、12日の夕飯どきにみんなでわいわい話していると、ある男が「今晩はツナミが来るから逃げたほうがいいぞ」と、何気なく言う。

あまりに何気ない感じだったので僕は最初冗談かと思ったが、他の人の話を聞いているとどうやら事実らしく(こういう情報は皆テレビかケータイ、次いでラジオから手にいいれる様子)、ホテル(政府の観光局が経営しているもの、割と大きく15室くらいあった。シーズン外でかなり割安になっていた)に戻って、従業員たちとまた話をした。

彼らはかなり緊迫感があって、私の帰りも今かいまかと待っていたようだ。インドネシア周辺で地震があったことを聞く。急いで2階に荷物をもってあがれと言われ、言われたとおりに荷物をもって2階へ。一室に案内されたが、他の部屋はすでに近隣の住民らが避難してきてiた。子供もお母さんも男たちも、皆不安そうにしている。

外では、バイクが拡声器をもって避難を呼びかけて走っていく。また翌朝ボリシャルやクルナなどの大きな街に行くために留めてあった長距離用のバスには、たくさんの人達が乗り込んでいた。

若者たちがいつも遊び半分で乗っていたバイクはこのときとばかりにホテルの前をクラクションを鳴らして疾走していく。

僕も、ホテルに残ろうかそれともバスに乗ろうか、迷いに迷った。僕だって生きたかった。
しかし、一旦はバスの前にまで行ったものの、乗るのを止めた。

やっぱり今まで僕に色々善くしてくれたホテルの従業員たちを残してひとりバスに乗ることはできなかったし、実際隣町に行って助かるものかというのも大いに疑問だった。

というのも、そこまで行くにはかなりのオフロードが予想されたし、この混乱では隣町も色々な方面から人が集まって僕の居場所などないだろう。また、隣町も川岸にありまたホテルなどの高い建物も確かあまり見当たらなかった。
ならば、海から2百メートルほどではあるが、3階建てかつ鉄筋コンクリート(のはず)のこの建物の中にいたほうがまだ安全だろう。

実際、その判断は正しかった。2時間ほどあとになっても最後の一台のバスが出発しないのでなぜだろうとホテルの従業員と話していたら、先の道で渋滞がおきて詰まっていて行くにも行けないらしいとのこと。雨期のために道路は水を多分に含み、バスはぬかりにはまって抜け出せなくなり、またバングラデシュを細分する無数の川は橋がないために、渡し舟を待つ車で大渋滞。

この一件だけ考えても、途上国の脆弱性というものが非常に恐ろしい問題であることがわかる。

貧困とは、毎日の飯が食えない状態だけを指すのではないということを身をもって感じた。
こういう状態になってバスに乗れる貯金もなく、また乗れたとしても上記のような状態で逃げることも何もできないこともまた一つの貧困の形だろうと思う。

もし、道路や橋が整備されていたら、
もし、津波や災害時のための備蓄品やシェルターが用意されていたら、
事態はもっと収束していたはずだ。

僕もまた、ホテルの中でどうすることもできず、ただ落ち着かないまま廊下をソワソワと歩き回っていた。

ホテルはバスに乗れなかった人達も来て、少し増えていた。が、そんなに多くはない。ホテルの2階の部屋数(6室)で十分たりた。大体従業員もあわせて40人くらいだっただろうか。そもそも町自体にそんなに人はいないのだ。

こんなとき、このムスリムコミュニティには属していない仏教徒の人達はどうしているのだろうと考えた。
彼らもまた、海岸から50メートルも離れていないところ稲作をして生活しており、またこちらのムスリムコミュニティの人達ようにバスやバイクもあるわけはない(200年以上ここに住んでおり、独自の暮らしぶりを守っている。町のムスリムたちに比べ非常に素朴な性格)ので、どうやって逃げるのだろうと思った。
ダッカや街に出るときはこちらのバスを使うと聞いたが、この状況ではそうもいくまい。


僕は、どうにも仕方がないので部屋に戻って、今日の日記を書くことにした。それ以外、することがなかった。すると、避難してきた子供たちが集まってきて、僕の日記をじっとみつめる。日本語なのに。笑

そのうち、僕の方が「書く?」と聞くと、ペンを持って自分の自己紹介を書き始めた。英語を出来る大人さえこの地区では少なかったが、非常に流暢に英語を操る男の子だった。学校で勉強したという。集まってきた子供たちもどこか不安そうな顔をしている。そんな顔をされると、こちらもつられて益々不安になりそうだ。僕は勤めて笑顔で応対する。自分でもいっぱいいっぱいだった。


時計をみると、11時半を過ぎていた。


いざというときに、体力がなくてはマズイと思いとりあえずベッドに横になる。

受付のヒンドゥー教徒の女の子(25歳くらい)や、よくわからない男(僕の周りにはこんなんばっかりいた笑)らが横に来ては励ましたり、日本に行きたいぜと言ってきたり(こういう場合には、どうして日本に行きたいのか、理由や目的を聞いて、日本がどういう国で悲惨な人達がたくさんいることを逐一説明するのだが、なかなかわかってもらえない)、色んな人が話しに来てくれた。とにもかくにも、一人ぼっちだった僕としてはひとりにしてほしい気持ちもあったが、素直に嬉しかった。


このとき、僕は生まれて初めて、死というものを意識した。精神的な圧迫感、とてつもない不安感。息が苦しかった。これが恐怖するということなのだろう。こういう状況になって初めて人間の「大きさ」とはわかるものだ。このときの僕は一体、どのくらいの大きさだったのだろう。どれだけ、周りのことやこれから起こることに対応できただろう。死を覚悟するなんてことは、全くもってできやしなかった。


が、結局これだけ期待した津波は来なかった。

6時ごろ、町に出てみるとチラホラと食堂や店を開ける人達がいた。自宅に残った人達もいたらしい。

仏教徒コミュニティの方にも行ってみたが、彼らもいつもどおり暮らしていた。
避難したか聞いてみると、「ツナミ?なんのことだ。昨日もいつもどおりだったよ。」と言っていた。ツナミのことも知らなかったらしい。いや、きっと知っていた人達もいたはずだ。拡声器でバイクが走り回って伝えていたし、コミュニティは町のすぐそばにある。テレビもある。知らないはずはない。

ここからは僕の想像だが、きっと彼らはここが一番安全だと考えたのだと思う。200年以上も続いてきたわけだし、バングラデシュで一番大きな仏像もある。ここ以外に行く場所もないのだろう。ムスリムと一線をきっちりと分けている彼らが、こういう場合に限ってムスリムの力を借りて彼らの家に避難するなんてことも考えにくい。

もし、津波がきていたら、と考える。海のすぐそばまで広がる田園は壊滅、波は川を逆流し幾多の町を飲み込み(町は普通川のそばにある)、その後、伝染病が蔓延し、老人や子供が救いの手もなく死ぬのだろう。水没した田園を復旧するにも長期間かかり、農家は困窮するだろう。救えるはずの多くの命が失われていく。

こういう話を、実感として感じた。

自分が今生きていることを本当に幸せに思った瞬間だった。


2 件のコメント:

mai さんのコメント...

本当に今ここに生きていること幸せ。
日本にいたら死とむきあうことめったにめったにないもんね。
あやしい男に人気か。笑

CARLOSI さんのコメント...

そこに注目すんなよ。笑

おつかれちゃん。