今年の夏休みは、またすごくたくさんのことを経験することができた。
8月の本会議は、きっとこれからの僕の人生の原点になるものだったと思うし、いい意味でも悪い意味でも僕に対して示唆に富んだものだった。
一人旅でもまた、今度は自分との話し合いという意味でとても良い時間を過ごせた。クアカタでの津波事件は、きっと僕の中に一生残るものだろうと思う。この経験を中心にして、自分の中の核なるものを少しずつ塗り固めて大きくしていけたらいい。
想像することが大事なんだって、改めて感じた。
特にいまの時代にあって、それが益々重要性を増している。
クアカタで自分が初めて「社会的弱者」といわれる様な人達と同じ立場、同じ視点に立って迫り来る津波の恐怖におびえた。ただその到来を待つ以外、何もできない。
もし津波が来ていたら、と思う。身震いする。
日本にいたとき、こんな風に僕は想像しただろうか。いや、しなかった。
僕や僕たち先進国側の人間は世界で起こる悲劇のことをもっと想像しなければならないと思う。
江戸時代や、ずっと昔はきっと今のように世界で起きていることを想像することなんていらなかった。自分の生活に関わっているのは、周りの家とせいぜい自分の町で収まるわけで、3丁目の〇〇さんちのおじいちゃんが死んだらその死と家族の悲劇を悼むくらいのことでよかった。自分の関わるコミュニティから外れることを想像する必要はなかった。
でも、
今は違う。自分の着ている服がお隣の国の人が作ったものだったり、夕飯のコロッケのお肉が海を挟んで運ばれてきたりするのが当たり前の環境だ。もはや日本で生きる私たちの生活は、世界と関わった。関わってしまった。それなのに、想像する範囲は江戸時代と同じ自分の属するコミュニティの中とちょっと新聞やテレビに出てること。
自分は世界の人達に支えられて生きているのに、自分はというと世界の人達が苦しんでいてもわれ関せずって感じで生きている。それって、ちょっとおかしい。金があるからいいのか。金を渡せば、それでいいのか。きっとその程度の話じゃないはずだ。
想像するとはどういうことか。テレビのニュースをみてああかわいそうだと思うのとは違う。その人々の置かれている立場や状況を自分に置き換えて考えてみるということだ。別に募金や被災地に行ってボランティアしろといっているのではない。そんなのは、やりたい人に任せておけばいい。想像して痛みをわかろうとすれば、そこから自発的な何かが生まれる。考えてみよう。
阪神大震災が起きたとき、多くの人達が被災地へボランティアに出かけ、色んな助け合いが生まれたという。日本におけるボランティア活動の原点は阪神大震災にあるとも言われるくらいだ。それはきっと、被災者の痛みを想像したからいろんな人が自発的にそのような行動に転じた結果だろう。
同じことを僕たちは「史上最大の人道危機」といわれるダルフールの人達にしているだろうか。彼らの痛みを想像しているだろうか。距離や情報量など様々な点で、阪神大震災とは状況が違うだろう。問題が複雑で、わかりにくいと思うかもしれない。でもそんな問題を僕たち一人ひとりが理解する必要はなくて、それ以前にダルフールで無残に自分の家を破壊され、なたで切られていく人々の痛みを、単に同じ人間として僕たちは想像しなければならないと思う。した方がいいのではない、しなきゃいけないんだと思う。僕たちはそれだけのことをしなくちゃいけない生活をしている。
彼らの痛みや苦しみを想像するという行為が、現代において世界の多くの人々に支えられて日常生活を送る僕たちに必要な一つの行動要素だと思う。
もちろん、偉そうにこんなことを言っている僕であっても、今までここまでの問題意識をもったことは一度もなかった。本当に恥ずかしいと思うし、間違いだと思う。
想像するということをできない、しないのであれば、それはすなわちナチスの人間達とも変わりない。彼らはユダヤ人の痛みを理解しようとしなかった。相手の痛みを理解しようとしなければ、僕たちにだって難しい話は抜きに彼らのようになる可能性はあるんだと思う。
それは、イラク戦争を起こしたブッシュやアメリカ国民にだっていえることだ。自分たちの痛みは理解しろと言うくせに、相手の痛みを想像しなかった。終わってから間違いだったなんて言ったって後の祭りだろう。
また、その「想像する」対象は上に述べたようないわゆる弱者といわれる人達の痛みを想像するということだけでもない。
よく言われることだか、先に述べたような夕飯のおかずに対してだって、僕たちは想像しなければならない。コロッケになった牛肉だって、もともとは牛で生きていた。それを殺し皮を剥ぎ、内臓をむき、切り裂いて機械でミンチにする。その牛の殺される痛みを想像せずしてコロッケを食う資格はないのだろう。
たかが牛と言うかもしれない。それでも僕は、牛の痛みを想像しなければならないと思う。小学校で僕らはみんな生きていると教わった。
環境問題だってそうだろう。猛暑に冷房を18度に設定している人間がオゾン層を破壊しているという感覚を持っているわけがない。でも、そういうことが起きているということを想像する必要が、今の僕たちにはあるのだ。
さらにいえば、教育というもの自体、想像することを訓練するべきところではなかったか、と思う(学校の授業を真面目に受けてこなかったし、大して勉強も出来るわけではなかった僕がいうのはおかしいとほとほと思うが、だからこそこう思うのかもしれない)。未知なる世界をみせて、想像させる。想像すれば、その想像が実際はどうなのか気になる。だから勉強する。想像することが教育の最も根本となるべきだと思う。数学や理科系のことはわからないが、現代社会においては相手の痛みを想像できなければならないし、それは日常生活からは非常に遠い存在になっている。まさに未知だろう。それを想像し、理解したいと思うから、勉強というものに結びつくのだと思う。ところがどっこい最近の学校はといえば、全くもってこの想像することを無視しているように思えてならない。暗記や理解の早い奴だけが勝つような教育は、どう考えてもおかしい。物事の本質はそこにあるとは思えない。
想像力とは、現代人に一番かけていて、一番必要とされているものだろうと僕は思う。
でも、想像力があれば、きっと今起こっているたくさんの社会問題は解消されていてもおかしくないとも思う。
想像力があれば、戦争だって止められると思うし、環境問題だってもっと解消されていくはずだ。南北問題だろうと、拉致問題だろうと、自殺率だろうと、年金問題だろうと、どんな問題だってもっと解決に向かうはずだ。
想像しよう。
僕自身に言っている。
3 件のコメント:
imagine
わたしも、わたしも。
この言葉を、銘にしてるよ。
かなりいい夏だったようで。
最近の自分の焦点は「知ること」にあって
ずっと「想像力」が欠けてる気がしてならない。
いやーまいったまいった
>ほほえみ
ですよね、ですよね。
おつかれちゃん!
>たばた
そうだといいな。
俺ら、これからだと思う。
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